教習所の受付窓口には、毎日さまざまな方が訪れます。 これから免許を取る若者たちの希望に満ちた顔、更新のための講習を受けに来るベテランドライバーたちの慣れた様子。 しかし、あの日、私の目の前に現れた一人の高齢男性の表情は、そのどちらとも違いました。
それは、何かに追い詰められたような焦燥感と、藁にもすがるような悲哀が入り混じった、忘れられない表情でした。 今回は、私が教習所の現場で遭遇したある「事件」を通して、運転免許制度の厳しい現実と、意外と知られていない「病気による免許取り消し」について、包み隠さずお話ししたいと思います。
これは、決して他人事ではありません。明日はあなたや、あなたの大切な家族の身に起こるかもしれない物語です。
1. 導入:窓口での奇妙な依頼
ある晴れた日の午後でした。自動ドアが開き、一人の高齢男性が入ってきました。 年齢は70代後半から80代前半でしょうか。農作業着のような服装で、日焼けした肌には深い皺が刻まれていました。ここでは仮にAさんとお呼びします。
Aさんは、カウンターに歩み寄るなり、少し震える声でこう言いました。 「あの……ここで受けた講習の証明書を、もう一度出してくれんか」
再発行の依頼自体は、それほど珍しいことではありません。失くしてしまったり、汚してしまったりする方は時折いらっしゃいます。私は事務的に対応を始めました。 「かしこまりました。お名前と生年月日をお願いします」
Aさんの情報をシステムで検索すると、確かに彼は当校で「高齢者講習」と「運転技能検査(実車試験)」を受講しており、どちらも問題なく修了・合格していました。データの日付を見ると、数ヶ月前のことです。
「Aさん、確かに履歴がございました。高齢者講習修了証明書と、運転技能検査結果通知書の再発行ですね。少々お待ちください」
私が手続きを進めようとすると、Aさんは身を乗り出して続けました。 「あと、あの認知機能検査の紙もだ。あれも一緒に出してくれ」
ここで私の手は止まりました。 画面上のデータを確認しましたが、Aさんは当校で認知機能検査を受けていませんでした。おそらく、県内の別の会場や、他の教習所で受検されたのでしょう。
「申し訳ありません、Aさん。認知機能検査については、当校で実施された記録がないため、ここでは再発行ができないんです。受検された会場にお問い合わせいただけますか?」
そう伝えた瞬間、Aさんの顔色がさっと変わりました。 「そんなこと言わずに、なんとかならんのか! あんたんとこで全部まとめて持っていきたいんだよ!」
その剣幕に、私はただならぬ違和感を覚えました。 そもそも、講習も検査も数ヶ月前に終わっているということは、時期的にはすでに免許の更新手続き自体が完了しているはずです。新しい免許証が手元にあるならば、今さらこれらの証明書が必要になる場面などありません。
「あの、失礼ですがAさん。免許の更新はもうお済みではないですか? 新しい免許証をお持ちなら、証明書はもう必要ないはずですが……」
私がそう尋ねると、Aさんは視線を泳がせ、脂汗を滲ませながら、絞り出すように言いました。 「いや、どうしても要るんだ。更新はした。したんだが……警察に見せなきゃならんのだ。俺はちゃんと運転できるってことを、証明しなきゃならんのだよ!」
更新したのに、警察に見せる? 俺は運転できると証明する?
私の背筋に、冷たいものが走りました。これは単なる紛失の再発行ではない。もっと深刻な、取り返しのつかない事態が進行しているのではないか。 私は独断で再発行することを躊躇い、「確認しますので少々お待ちください」と伝え、奥の事務所へと下がりました。
2. 真相解明:警察への照会で判明した「悲しい現実」
事務所に戻った私は、すぐに管轄の運転免許センターの高齢者講習担当係(警察)へ電話をかけました。 個人情報に関わることですが、教習所は警察の委託を受けて業務を行っているため、こうした特異なケースでは照会が可能です。
「お世話になっております。実は今、窓口にAさんという方が来られておりまして……」
事情を説明すると、電話口の警察官の声のトーンが一段低くなりました。 「ああ、Aさんですね。……事情は分かりました。教習所さん、その方には何も発行しなくていいです。いや、発行しても意味がないんです」
「と、おっしゃいますと?」
そこから語られたのは、Aさんが隠そうとしていた、あまりにも悲しい現実でした。
免許更新後の事故、そして診断
警察官の話を要約すると、事態は以下のように進んでいました。
- Aさんは今年、当校での講習などを経て、問題なく免許更新を完了した。
- しかし、更新からほどなくして、Aさんは交通事故を起こした。
- 事故現場に駆けつけた警察官が、Aさんの受け答えや挙動に不審な点(つじつまが合わない、場所が認識できていない等)を感じた。
- 警察は道路交通法に基づき、Aさんに対して**「臨時適性検査(専門医による診断)」**を受けるよう指示を出した。
- Aさんは病院を受診し、主治医から明確に**「認知症」である旨の診断書**が出された。
- Aさんは、その診断書を警察に提出してしまった。
その結果、現在Aさんは**「運転免許の取消処分」**の手続きラインに乗ってしまっていたのです。
Aさんの必死の抵抗
現在、Aさんは免許を取り消される前の「聴聞(意見の聴取)」という手続きを待っている段階でした。これは、処分が下される前に、本人が弁明する機会を与えられる場です。
Aさんが当校に来た理由。それは、この聴聞の場で、 「見てくれ! 俺は数ヶ月前に教習所の検査に合格しているんだ! 運転も上手いし、頭もボケてない! ほら、証明書だってある!」 と主張し、医師の診断による取消処分を覆そうとしていたのです。
「俺は運転できると証明しなきゃならんのだ」
窓口でのあの言葉の意味が、ようやく理解できました。 Aさんは、自分の運転免許という「命綱」が断ち切られようとしている今、必死に抵抗していたのです。
Aさんがお住まいの地域は、公共交通機関がほとんどない山間部です。 車がなければ買い物にも行けず、病院にも行けません。何より、長年続けてきた畑仕事に行くための軽トラックに乗れなくなることは、Aさんにとって手足を奪われるに等しいことだったのでしょう。
「俺から車を取り上げたら、生きていけない」 言葉には出しませんでしたが、Aさんの背中はそう叫んでいました。 しかし、現実は非情です。
3. 法の壁:なぜ教習所の証明書では「診断」を覆せないのか
私は窓口に戻り、Aさんに警察から聞いた事実を伏せつつ、丁重にお断りしなければなりませんでした。 しかし、読者の皆様には、なぜAさんの作戦(教習所の証明書で対抗すること)が法的に無意味なのか、正確に理解していただきたいと思います。
行政処分と医療判断の「格」の違い
教習所で行われる「認知機能検査」や「運転技能検査」は、あくまで運転免許更新のための**「スクリーニング(ふるい分け)」**に過ぎません。 「今のところ、認知機能低下の『おそれ』があるかないか」「運転操作ができるか」を見る簡易的なものです。
一方で、警察の指示で受けた**「医師の診断」は、医学的かつ法的に確定した「事実」**として扱われます。 道路交通法において、免許の拒否や取消しの基準となるのは、この「医師による診断結果」です。
覆ることのない処分
医師が「この患者は認知症であり、自動車の運転に支障を及ぼすおそれがある」と診断し、その診断書が公安委員会(警察)に提出された時点で、法的な効力は絶対的なものとなります。
たとえ、その数ヶ月前に教習所のテストで満点を取っていたとしても、あるいは、その日の運転技能検査でたまたま上手く運転できたとしても、「医学的に認知症である」という事実は覆りません。 認知症は進行性の病気であり、また日によって症状に波があることも知られています。「たまたま出来た」ことよりも、「医学的にリスクがある」という事実が、安全確保の観点から優先されるのです。
Aさんが聴聞の場でどれだけ過去の栄光(合格通知)を提示しても、医師の診断書がある以上、取消処分が撤回される可能性はゼロでした。
Aさんは、再発行ができないと知ると、肩を落とし、重たい足取りで帰っていきました。その背中を見送りながら、私はやるせない気持ちでいっぱいになりました。 もし、事故を起こす前に、あるいは診断書を出す前に、別の選択肢を取れていれば……。
4. 徹底解説:事故や違反だけじゃない!運転免許を拒否・保留・取り消される「病気」リスト
今回のAさんのケースは「認知症」でしたが、運転免許が強制的に取り消される(または更新を拒否される)理由は、事故や違反の点数だけではありません。 道路交通法では、**「自動車等の安全な運転に支障を及ぼすおそれがある病気」**にかかっている場合、免許を与えるべきではない(拒否)、あるいは今持っている免許を取り上げる(取消し)と定めています。
これは、「かわいそうだから」という感情論では済まされない、人命に関わる非常に重いルールです。 具体的にどのような病気が対象となるのか、法令(道路交通法第103条等、施行令第33条の2の3)に基づき解説します。ご自身やご家族に当てはまるものがないか、冷静に確認してください。
① 認知症(介護保険法第5条の2に規定するもの)
今回のAさんのケースです。 物忘れとは異なり、場所の認識ができなくなったり、信号の意味がわからなくなったりする病態です。医師により認知症と診断された場合、例外なく免許取消し(または拒否)の対象となります。
② アルコール、麻薬、大麻、あへん又は覚醒剤の中毒
これらは依存症や中毒症状により、正常な判断能力や運動能力が著しく損なわれるため、免許を持つ資格がないと判断されます。
③ 統合失調症
全ての方が対象ではありません。 「自動車等の安全な運転に必要な認知、予測、判断又は操作のいずれかに係る能力を欠くこととなるおそれがある症状を呈しないものを除く」とされています。 つまり、幻覚や妄想などの症状があり、運転に支障が出る可能性があると医師に診断された場合が対象です。
④ てんかん
こちらも全ての方が対象ではありません。 発作により意識障害や運動障害をもたらす病気ですが、「発作が再発するおそれがないもの」「発作が再発しても意識障害及び運動障害がもたらされないもの」「発作が睡眠中に限り再発するもの」は除外されます。 逆に言えば、運転中に意識を失う発作が起きる可能性がある場合は、免許の取得や継続は認められません。過去にクレーン車事故などで大きな社会問題となり、厳格化されています。
⑤ 再発性の失神
「脳全体の虚血により一過性の意識障害をもたらす病気であって、発作が再発するおそれがあるもの」を指します。 運転中に突然ブラックアウト(失神)してしまう恐れがあるため、非常に危険です。
⑥ 無自覚性の低血糖症
糖尿病の治療中などで起きる低血糖ですが、「人為的に血糖を調節することができるものを除く」とされています。 前触れなく意識を失う「無自覚性」のものが対象となり、運転中の意識喪失事故の原因の一つとして重要視されています。
⑦ そううつ病(双極性障害)
「自動車等の安全な運転に必要な認知等に係る能力を欠くこととなるおそれがある症状を呈しないものを除く」とされています。 そう状態での無謀な運転や、うつ状態での判断力低下が懸念される重度の場合が対象となります。
⑧ 重度の眠気の症状を呈する睡眠障害
重度の睡眠時無呼吸症候群(SAS)やナルコレプシーなどが該当します。 運転中に強烈な眠気に襲われ、居眠り運転を引き起こすリスクが高いため、適切な治療を受けていない場合などは取消しの対象となります。
⑨ その他、安全運転に支障を及ぼす身体の障害
- 目が見えないこと
- 体幹の機能に障害があって腰をかけていることができないもの
- 四肢の全部を失ったもの、又は四肢の用を全廃したもの
- その他、安全な運転に必要な能力を欠くもの
※ただし、身体障害については、車の改造(手動装置など)や条件付き免許によって運転が認められるケースも多々あります。
5. 「自主返納」と「取消処分」の決定的違い:戻れない分岐点
話をAさんの事例に戻しましょう。 私がこの件で最も心が痛んだのは、Aさんが**「もう後戻りできない場所まで来てしまっていた」**という点です。
免許を手放すことには変わりないかもしれませんが、**「自主返納」と「病気による取消処分」**は、その意味合いも、その後の生活も天と地ほど違います。
戻れない分岐点:診断書の提出
Aさんは、警察に指示されたとはいえ、「認知症」と書かれた診断書を警察に提出してしまいました。 この瞬間、手続きは「行政処分(取消し)」のレールに乗ります。一度このレールに乗ると、途中で「やっぱり自分で返納します」ということは原則として認められません。
取消処分のデメリット
病気による取消しの場合、違反による取消しとは異なり、「欠格期間(免許を取れない期間)」は通常つきませんが、以下のデメリットがあります。
- 「奪われた」という精神的苦痛: 自らの意思で卒業するのと、国から強制的に取り上げられるのとでは、プライドや納得感が全く違います。これは後の認知症の進行や精神状態にも悪影響を及ぼしかねません。
- 手続きの煩雑さと特典の喪失: ここが最も実利的な問題です。自主返納(申請による取消し)であれば、その場で**「運転経歴証明書」**の発行手続きができ、即日からタクシー割引やバスの割引、商店街でのサービスなどの「返納特典」を受ける準備が整います。 しかし、強制的な取消処分を受けた場合、免許証は没収されます。その後、「運転経歴証明書」を申請することは可能(取消しから5年以内など条件あり)ですが、手続きがスムーズにいかなかったり、本人がショックを受けて手続きをする気力を失ったりするケースが多々あります。結果として、移動手段の割引サポートなどを活用できないまま、引きこもりがちになってしまうのです。
タイミングの重要性
もし、Aさんが事故を起こす前に、あるいは事故を起こした後でも診断書を警察に出す前に、家族や本人が「もう潮時だ」と判断し、自主返納を選んでいれば……。 Aさんは「無事故のベテランドライバー」としての誇りを保ったまま、運転経歴証明書を手にし、地域バスやタクシーを使った新しい生活へとスムーズに移行できていたかもしれません。
6. まとめ:ハンドルを置く勇気と、家族の守り方
教習所の窓口で見たAさんの必死な形相は、車社会に生きる高齢者の切実な現実を映し出していました。 しかし、認知症や重い病気を抱えた状態での運転は、動く凶器を操ることに他なりません。Aさんは幸いにも物損事故(詳細は不明ですが、大事には至っていない様子)でしたが、もしそこで人の命を奪っていたら、Aさんの晩年は悔恨にまみれたものになっていたでしょう。
「自分は大丈夫」が一番危ない
この記事を読んでいるあなた、あるいはあなたのご家族は大丈夫でしょうか? 「教習所の検査で合格したから大丈夫」 「長年事故を起こしていないから大丈夫」 Aさんもそう思っていました。しかし、病気は音もなく進行し、ある日突然、決定的なミスを引き起こします。
家族ができること
もし、ご家族の車に**「見覚えのない小さな擦り傷」が増えていたり、「通い慣れた道で迷う」ことがあったりしたら、それは危険信号です。 警察沙汰になる前に、診断書を提出することになる前に、まずは病院へ行き、そして自主返納**という選択肢を家族で話し合ってください。
運転免許の返納は、決して「負け」や「喪失」ではありません。 長年、家族のためにハンドルを握り、安全に走り抜けてきたドライバーとしての**「有終の美」であり、社会と家族の安全を守る「英断」**です。
Aさんのような悲しい事例が一件でも減ることを、教習所の現場から切に願っています。 正しい知識とタイミングで、安全な引き際を考えてみてください。


