昨日、私が勤める教習所の受付に、仲の良さそうな80代のご夫婦がいらっしゃいました。 お二人とも背筋が伸びており、杖をつくこともなく、とてもお元気そうな様子です。
私はてっきり、75歳以上のドライバーに義務付けられている「高齢者講習」の予約を取りに来られたのだと思いました。 「講習のご予約ですか?」 私が笑顔で声をかけると、ご主人が少し言いにくそうに、しかし真剣な眼差しでこう言いました。
「いや、免許を取りたいんだ。」
詳しくお話を伺うと、ご主人は長年無事故無違反の優良ドライバーでしたが、ご自身の入院やコロナ禍の自粛などが重なり、気付いたときには免許を「うっかり失効」させてしまっていたそうです。 失効からすでに10ヶ月が経過していました。
「ここ最近、また足腰が少し弱ってきてね。通院や買い物に、あと5年……いや、3年でもいい。どうしても車が必要になった。だから、もう一度免許を復活させたい」
切実な願いです。 今まで運転していたのですから、技術には自信があるでしょう。「手続きさえすればすぐに戻る」と思っておられたのかもしれません。
しかし、私はプロとして、このご夫婦に「現実」を伝えなければなりませんでした。 そして、約1時間にわたってお話しさせていただいた結果、ご夫婦は涙を流し、「再取得はしない」という決断をして帰られました。
なぜ、彼らは諦めたのか。 そしてなぜ、私は教習所の利益になるはずの「入校」を勧めず、むしろ思いとどまるよう説得したのか。
今回は、免許を返納した、あるいは失効させてしまったけれど、「やっぱり復活させたい」と考えている高齢者の皆様へ、現場の指導員としてどうしても伝えておきたい「復活の代償」についてお話しします。
第1章:制度の壁「ただの手続き」では済まない現実
まず、感情論は抜きにして、法律上の「免許復活」のルールについて解説します。 多くの方が「警察署に行って書類を書けば戻る」と誤解されていますが、失効した期間によっては、それは「復活」ではなく「ゼロからのやり直し」になります。
免許証の有効期限が切れてしまった場合、その理由が「やむを得ない理由(入院・海外滞在・身体の拘束など)」か、単なる「うっかり(理由なし)」かによって手続きが異なります。
今回の80代男性の場合は、入院期間はあったものの、退院後に手続きできる期間を過ぎてしまっていたため、「やむを得ない理由」とは認められず、いわゆる「特定失効者」としての手続きになります。
ここには、期間によって3つの大きな壁があります。
1. 失効から「6ヶ月以内」の場合
もし、あなたがこの期間内であれば、まだ救済の道は開かれています。 **「うっかり失効」**と呼ばれる区分で、比較的手続きはスムーズです。
- 試験の免除: 学科試験と技能試験(実車試験)が免除されます。視力検査などの適性試験だけで済みます。
- 講習: 免許更新時と同じ講習を受けます。
- 注意点: たとえ今まで「ゴールド免許」だったとしても、失効して再取得となるため、**「ブルー免許(有効期間3年)」**からの再スタートになるのが一般的です。
この期間内であれば、費用も手間も「更新」より少しかかる程度で済みます。しかし、半年という時間はあっという間に過ぎ去ります。
2. 失効から「6ヶ月を超え、1年以内」の場合
今回の80代のご主人は、ここに該当しました(失効後10ヶ月)。 ここから、状況は一変します。「免許の復活」という生易しいものではなく、**「一部免除での再取得」**というイバラの道になります。
- 何がもらえるのか: 免許証ではありません。**「仮免許証」**です。
- 免除されるもの: 本来なら受けるはずの「仮免の学科試験」と「仮免の技能試験」は免除されます。適性検査を受ければ「仮免許」は交付されます。
「仮免許がもらえるなら、あとは楽勝じゃないか」 そう思われるかもしれません。しかし、ここに大きな落とし穴があります。
仮免許には有効期限(6ヶ月)があります。この間に、一発試験の場合、以下のステップをクリアしなければなりません。
- 路上練習: 1日2時間×5日以上の路上練習を行い、「路上練習申告書」を作成する。(助手席には指導資格のある人を乗せなければなりません。)
- 本免学科試験: 試験場で90点以上を取って合格する。
- 本免技能試験: 試験場で警察官による厳しい技能試験に合格する。または、教習所に入所して卒業検定に合格する。
- 取得時講習: 教習所等で応急救護などの講習を受ける。
80代の方が、家族を助手席に乗せて路上練習をするリスク。 そして何より、試験場の一発試験(技能)は、合格率数パーセントとも言われる超難関です。
「じゃあ、教習所に入ればいい」と思いますよね? 実は、多くの教習所では**「仮免からの途中入所」を受け入れていないか、非常に消極的**です。 長年の自己流の癖がついた高齢ドライバーの矯正は、新人を教えるより遥かに難しく、カリキュラムに乗せるのが困難だからです。 つまり、制度上は道があっても、現実には「受け入れ先がない」という事態に陥りやすいのがこの期間なのです。
3. 失効から「1年以上」経過している場合
残念ながら、1年を1日でも過ぎてしまえば、一切の救済措置はありません。 たとえ運転歴50年のベテランであっても、法律上は「無免許の新人」と同じ扱いです。
- 方法: 教習所に「第1段階」から通い直す(約30万円〜)。または試験場で一発試験を受ける。
これが、制度上の現実です。 今回のご夫婦の場合、もし免許を取り戻そうとするなら、仮免許を持って教習所を探し回り(おそらく断られ)、試験場での厳しい試験に挑み続けなければならない……そういう状況でした。
第2章:経済的合理性「タクシー一生分」のコスト
次に、お金の話をしました。 「あと5年乗るために、いくらかかるか」の計算です。
もし、免許を再取得するために教習所に通うとなれば、入所金や教習料金で約30万円ほどかかります。 さらに、ご高齢の場合は規定の時間で卒業できることは稀です。補習や再検定のたびに追加料金がかかり、最終的に40万円、50万円とかかることも珍しくありません。
そして、車です。 手放してしまっていたら、再度購入しなければなりません。 中古の軽自動車でも、安全装備(サポカー)がついたものを探せば100万円〜200万円はかかります。
さらに維持費です。
- ガソリン代
- 駐車場代
- 自動車税
- 車検代
- 任意保険料(高齢者の新規加入は高額になります)
これらを合計すると、最初の1年で200万円以上、5年間乗り続ければ400万〜500万円近い出費になります。
私はご夫婦に問いかけました。 「400万円あったら、何ができるでしょうか?」
タクシーの初乗り運賃がいくらかご存知ですよね。 400万円あれば、月に5万円分タクシーを使っても、6年以上持ちます。 バスや電車、そして自治体のシニアパスを使えば、もっと長く、もっと自由に移動できます。
「自分専属の運転手(タクシー運転手)」を雇って、ドア・トゥ・ドアで送迎してもらい、車検の心配も、事故の心配もしなくていい。 経済的に見れば、今から免許を取り直して車を買うことは、「高級外車を乗り回す」のと同じくらい贅沢で、コストパフォーマンスの悪い選択なのです。
第3章:人生を賭けるには重すぎる「4つのリスク」
制度の壁、お金の壁。 これらは、頑張れば乗り越えられるかもしれません。 しかし、私が最も伝えたかったのは、そんなことではありません。
私が指導員として、心を鬼にして伝えたのは、**「晩節を汚すリスク」**についてです。
80歳を超えてからの運転再開。 それは、ご自身の命だけでなく、これまで80年かけて築き上げてきた「社会的信用」や「家族の幸せ」を、すべてギャンブルのテーブルに叩きつけるような行為です。
具体的に、4つのリスクがあります。
1. 身体機能の低下による「加害」のリスク
ご主人は「私はまだ元気だ」とおっしゃいました。 確かに、日常生活はお元気そうです。しかし、運転に必要な機能は別物です。
- 動体視力の低下: 飛び出してくる子供が見えますか?
- 反応速度の遅れ: 「危ない!」と思ってからブレーキを踏むまでの時間が、コンマ数秒遅れます。このコンマ数秒が、生と死を分けます。
- 操作ミス: 「アクセルとブレーキの踏み間違い」。これはボケているから起きるのではありません。加齢による筋肉の硬直や、感覚のズレによって、誰にでも起こり得る物理的なエラーです。
若い頃なら「ヒヤリ」で済んだ場面が、80代では「大事故」になります。
2. 「犯罪者」になり、刑務所に入るリスク
ここからは厳しい話をします。 万が一、アクセルを踏み間違えてコンビニに突っ込んだり、登校中の児童の列に突っ込んでしまったらどうなるか。
「おじいちゃんだから」「悪気はなかったから」 そんな言い訳は、通用しません。
「過失運転致死傷罪」 あなたは逮捕され、警察署の留置場に入り、裁判にかけられます。 実際に、80代、90代のドライバーが実刑判決を受け、刑務所に収監されるケースも増えています。 人生の最期を、家族に囲まれた畳の上ではなく、刑務所の冷たい壁の中で迎える。 そんな可能性が、ハンドルを握る限り常に隣り合わせなのです。
3. 社会的信用と家族への影響
事故のニュースを見るたびに、加害者の名前と年齢が報道されます。 「80歳にもなって、なぜ免許を返さなかったのか」 「家族は何をしていたのか」
世間のバッシングは、ご本人だけでなく、お子さんやお孫さんにも及びます。 「あそこのお父さんが事故を起こした」と噂され、家族が肩身の狭い思いをして暮らさなければならなくなる。 今まで地域の名士として、あるいは良き隣人として積み上げてきた80年の信頼が、たった一度のアクセルの踏み間違いで、すべて崩れ去ります。
被害者の方、そのご遺族への償いは、金銭だけで済むものではありません。 一生消えない「罪の意識」を背負い、家族全員を巻き込んで生きていくことになります。
4. 保険が下りない? 経済的破綻のリスク
さらに恐ろしいのが、保険の問題です。 「保険に入っているから、賠償金は大丈夫」と思っていませんか?
もし、ご自身に「認知症」や「てんかん」などの持病の兆候があったにもかかわらず、それを申告せずに免許を更新・取得し、事故を起こした場合。 **「告知義務違反」**として、保険金が支払われない可能性があります。
数千万円、場合によっては億単位の賠償金が、全額自己負担になります。 ご自宅を売り払い、預貯金をすべて吐き出し、それでも足りずに子供たちに借金を背負わせる……。 「便利だから」と復活させた免許のせいで、一族全員が路頭に迷うことになりかねないのです。
エピローグ:涙の決断と「勇気ある撤退」
ここまでのお話を、私はご夫婦の目を見て、包み隠さずお伝えしました。 決して脅すつもりはありません。ただ、現場を知る人間として、最悪のシナリオを知らずにハンドルを握ってほしくなかったのです。
話を聞き終えたとき、最初は「乗りたい」と意気込んでいたご主人の目から、涙がこぼれていました。 悔し涙ではありませんでした。 隣で話を聞いていた奥様の手を握り、ご主人はこう言いました。
「……怖くなりました。私は、取り返しのつかないことをしようとしていたのかもしれん」
結果的に、ご夫婦は免許取得の手続きをせず、教習所を後にされました。
最後に:今、迷っているあなたへ
もし、この記事を読んでいるあなたが、免許の復活を考えているなら。 あるいは、ご両親が「免許を取り直したい」と言い出して困っているなら。
どうか、もう一度だけ天秤にかけてみてください。
片方の皿には**「車のある生活の便利さ」「運転する楽しさ」が乗っています。 もう片方の皿には「あなたと家族の全財産」「社会的信用」「残りの人生の平穏」「被害者の命」**が乗っています。
免許を諦めることは、「負け」ではありません。 老いを認めることは、恥ずかしいことではありません。
それは、あなた自身と、愛する家族、そして社会を守るための**「勇気ある撤退」であり、「英断」**です。
教習所としては、お客様が減ることは寂しいことです。 しかし、それ以上に、皆様が事故の加害者にも被害者にもならず、平穏な余生を過ごされることが、私たち指導員の何よりの願いなのです。
免許証の代わりに、バスの時刻表とタクシー会社の電話番号をお守りにしてください。 それが、80歳からの賢いカーライフの形だと、私は信じています。

